密厳院は、千百年以上も昔に開創されたといわれている、歴史のある寺院です。
境内には、八百屋お七をお祀りしたお七地蔵や、聖徳太子像を安置した、太子堂などがあります。また、玉川八十八ヶ所霊場の第七十六番札所です。

 

密厳院の概略

東海道線のガードの前の大森銀座商店街を抜けて、太い通りを渡り、鷲神社を左に見て通り越し、広場の先の八幡通りを東の方向に進むと、当山入り口に出ます。通りの右側にあります。真言宗智山派、寺号は祈念寺、山号は八幡山、旧本寺は川崎大師の平間寺(へいげんじ)、本尊は不動明王です。江戸期には郷社磐井(ごうしやいわい)神社をはじめ、附近の14社の別当(べつとう)を兼ねていました。 『新編武蔵風土記稿』には、山城国醍醐三宝院の末寺で、開山(かいさん)は運誉、開創の年代は不明といい、11世栄定が永禄10年(1567)に没しているので、かなりの古刹であろうと思われます。 また、往昔は現在の鷲神社のところに当院の大門があり、その裏手の水田の中に祈念塚とよばれる古塚があって、そこも密厳院の境域であったので、相当広大な境内を有していたのであろうとも記されています。 寺伝では、開創は文安5年(1448)、開山は乗海法印とするので、『新編武蔵風土記稿』の所伝とは相違しますが、磐井神社との関係や、当院歴世の世代が75代に及んでいることなどから、かなりの古刹であることは間違いないでしょう。

 

密厳院のお七像

境内にある石造丸彫りの地蔵菩薩立像で、像高161cm、蓮座33cm、台石23.5cmもある大きなものです。 天和2年(1682)、放火の罪に問われ、鈴が森の刑場で火あぶりの刑に処せられた八百屋お七の霊を慰めるために造立されました。台石に、
 干時貞享2年丑乙4月24日
 地蔵菩薩開眼者 不入計村  密厳院
            大僧侶法印 栄音
  武刀(刀三つ)豊島郡小石川村一百万遍念仏講中
の銘文があり、お七の三周年忌の仏事供養のため、彼女の住んでいた小石川の念仏講中が、鈴が森刑場に近い当院を選んで建てたものであることがわかります。
 またこの地蔵は、もと鈴が森にあったのが、一夜でここにとんで来たという一夜地蔵の伝説もあります。

写真:お七地蔵

庚申供養塔

お七地蔵と並んで、境内のブロック造りの小堂におさめられています。石造舟型の塔で、塔身には法界定印(ほうかいじょういん)の阿弥陀如来が半肉彫りされており、この種の庚申塔は全国的にも数少く、石造美術としても見るべき点が多くあります。
 光背(こうはい)に銘文があり、寛文2年(1662)に造立されたことを記すので、区内では2番目に古い庚申塔ということになります。

 

密厳院の会館

平成十四年〜十六年にかけて境内整備がなされ、それに伴い本堂と庫裡も再建され、新に会館が新築されました。

会館は、宗旨・宗派を問わず、葬儀式場としてご利用いただけます。

館内は全館バリアフリーで、移動にはエレベーターや車椅子もご利用いただけます。

1Fホールには100名分程の椅子を並べらる広さがあります。

2Fは、導師控え室・和室・洋室(お斎会場)があります。

大田区の斎場 密厳院会館

                                      

            葬儀の事は                 

 

 

         
 お花を贈りたいとき ご利用できます

         供花の事は

 

真言宗の教え

真言宗でいちばん大切なことは、さとりです。私たち衆生の菩提心を開顕することがさとりであり、真言密教では即身成仏ともいっています。
さとりは、「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とす」(『大日経』)という、いわゆる三句の法門で示されます。
菩提心(菩提すなわち心、また菩提を求める心)はみずからのさとりのためのもの(自利)、大悲は他の救済のためのもの(利他)、方便は自と他とのためのもの(自利利他窮満)とされています。
手に印を結び(身密)、口に真言を唱え(口密)、心を三昧の境地におく(意密)三密行を実践することによって、修行者の身・口・意の三業は、自然に仏の身・口・意の三密にまで高められ、その身が成仏する(即身成仏=さとり)ことができるのです。

   真言宗の焼香のマナー

  1. 祭壇に進み、遺族に目礼し、故人の遺影に向かって一礼します。
  2. 一度合掌します。
  3. 親指、人指し指、中指で抹香をつまみ、目の高さぐらいまでに持ち上げます。
  4. 抹香を香炉の中へ落とします。(3回)
  5. 改めて遺影に向かって合掌します。
  6. 一歩下がり、僧侶と遺族に一礼し、席に戻ります。
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